◇すばらしい棒(ぼう)◇
その棒(ぼう)はとてもすばらしく、ポルはとても気に入っていました。
ちょうど良(よ)い長さで、持(も)ち歩きながら振(ふり)り回してみれば、風を切る音と共(とも)にその軽(かる)さを感(かん)じます。手触(てざわ)りも滑(なめ)らかで、気が付(つ)くと、いつも愛(いと)おしくさすっていました。
形はほぼ真(ま)っ直(す)ぐですが、先端(せんたん)は小枝(こえだ)を切り落(お)として二股(ふたまた)になっていました。また、手元の部分(ぶぶん)は少し膨(ふく)らんでいて、しっかりと握(にぎ)ることできました。
この棒(ぼう)を手に入れてから、ポルは自分もすばらしくなりたいと思うようになっていました。
(すばらしい棒(ぼう))を見たバミットが、自分の(すばらしい筆(ふで))を自慢(じまん)しながら言ったのです。
「このすばらしい筆(ふで)を、ポルが持っていたって何の意味(いみ)もない。絵を描(えが)くのがうまい俺(おれ)が持(も)つからふさわしいんだ」
すばらしい物(もの)と、ふさわしい持(も)ち主(ぬし)。
なんて、すばらしい言葉(ことば)なんだろうと思いながら、ポルはスキップをします。スキップだって以前(いぜん)とは違(ちが)います。よりリズミカルに速(はや)くできるようになりました。スキップの勢(いきお)いで、そのまま大きな水たまりを飛(と)び越(こ)えられたときには、自分でもすごく驚(おどろ)いたものです。
すばらしくスキップができるようになったのは、もちろん努力(どりょく)したからでした。さらには、努力(どりょく)する自分がすばらしいとも感(かん)じました。
また、他(ほか)にもポルは努力(どりょく)するようになりました。家にいるときは、ペンウッドの作業(さぎょう)の手伝(てつだ)いをして、フィロのところではケーキ作りや魔法(まほう)の手伝(てつだ)いをして、ジータのところでは野菜(やさい)作りの手伝(てつだ)いをしました。
それから、たまにバミットが絵を描(えが)く手伝(てつだ)いもしてあげました。
すると、ポルはすばらしく手伝(てつだ)いが上手(じょうず)になり、ふと考えるようになったのです。
「おいらも、自分で何かをやってみよう! それは、きっとすばらしいことに違(ちが)いない」
三日くらい考えて、思いついたのは、魔法(まほう)のビー玉のことでした。フィロに鑑定(かんてい)してもらってから、しばらくはポケットに入れて持(も)ち歩いていたのですが、特(とく)に何も起(お)きないので、そのうち小さな宝箱(たからばこ)に入れて家の引き出しにしまったままになっていました。いくらフィロが魔法(まほう)のビー玉だと言ってくれても、実感(じっかん)が沸(わ)かなかったのです。
ですが、それはポルがフィロの言ったことを実行(じっこう)していないことも原因(げんいん)でした。
「ポル、あなたがこのビー玉の魔法(まほう)を調(しら)べてみればいいのよ」
フィロは、そう言っていました。
すばらしい棒(ぼう)を手に入れたポルは、しっかりと魔法(まほう)のビー玉を調(しら)べてみることに決(き)めました。そして、みんなには「魔法(まほう)のビー玉研究家(けんきゅうか)」と名乗(なの)るようになりました。
◇ビー玉にふさわしく◇
いつものように、ポルがすばらしい棒(ぼう)を持(も)ちながら道をスキップしていると、フワンに出会いました。
「やあ、フワン。何か手伝(てつだ)うこと、ある?」
立ち止まったポルは、すばらしい棒(ぼう)を撫(な)でながら尋(たず)ねました。
フワンは、相棒(あいぼう)の宝箱(たからばこ)を撫(な)でながら答えました。
「いいや、特(とく)にないよ、ポル。ところで、ビー玉の研究(けんきゅう)は進(すす)んでいるの?」
「うん。今朝(けさ)もコップの中の水にビー玉を入れてみたけど、何も起(お)こらなかった。もしかしたら、水が沸騰(ふっとう)したり、甘(あま)くなったり、色が付(つ)くかもと思ったけど、何も変(か)わらなかった。でも、おいらはもっと研究(けんきゅう)するよ」
「そう、それは大変(たいへん)だね。何かわかったら、僕(ぼく)にも教えてね」
「もちろん」
二人は手を振(ふ)って別(わか)れました。
ポルは、フワンを見送(みお)りながら、すばらしい棒(ぼう)で地面(じめん)に線を引きました。今日ここで、フワンと出会った記録(きろく)です。いろいろなことを記録(きろく)することは、研究家(けんきゅうか)として大切なことだとフィロから教わりました。
今日も、これからフィロの家に行って魔法(まほう)のビー玉の研究(けんきゅう)について報告(ほうこく)をする予定(よてい)です。もちろん、フィロの家で紅茶(こうちゃ)やケーキをごちそうになるのも楽しみですが、(すばらしい棒(ぼう))を手に入れた近頃(ちかごろ)では、ポルがフィロを自分の家に誘(さそ)って紅茶(こうちゃ)をごちそうすることもありました。ただし、ケーキ作りまでは無理(むり)なので、これからがんばる予定(よてい)です。
フィロの家に着(つ)いたポルは、バラが咲(さ)く門をくぐって花園(はなぞの)を抜(ぬ)けると、ベルを鳴らしました。そして、フィロが戸口に現(あらわ)れると、挨拶(あいさつ)をしてから花園(はなぞの)を振(ふ)り返(かえ)り、花の話をします。
「ポルは、花のことも以前(いぜん)より詳(くわ)しくなったのね」
フィロに褒(ほ)められたポルの頬(ほお)が赤くなります。
「この、(すばらしい棒(ぼう))のおかげかな。おいら、この棒(ぼう)にふさわしくなりたいんだ」
「それは、いいことだわ。さあ、中に入ってお茶にしましょ。ビー玉のことを教えてちょうだい」
ポルは、フィロに誘(さそ)われて部屋(へや)に入ると、出された紅茶(こうちゃ)とケーキをいただきながら、魔法(まほう)のビー玉の話をしました。
まだ、何の魔法(まほう)がビー玉にかかっているのか不明(ふめい)ですが、いろいろな魔法(まほう)の効果(こうか)を想像(そうぞう)しながら実験(じっけん)するのは、とても楽しいことでした。
フィロは、優(やさ)しくポルの鼻(はな)を撫(な)でました。ポルと同様(どうよう)に、魔法使(まほうつか)いのフィロも魔法(まほう)のことを話す言葉(ことば)には熱(ねつ)がこもります。
「ポル、あなたが考えた魔法(まほう)の効果(こうか)はね、ほとんどが実際(じっさい)に魔法(まほう)でできるのよ。でもね、そのためには正しく準備(じゅんび)をして正しく呪文(じゅもん)を唱(とな)えなくてはならないの。それには、時間も知識(ちしき)も材料(ざいりょう)もたくさん必要(ひつよう)よ。だけど、そのビー玉にはもともと魔法(まほう)がかかっている。きっかけさえあれば、何かが起(お)こるはずなの。すばらしいビー玉だわ」
「でも、どんな魔法(まほう)かわからないんだよね」
「そうね。でも、どこの魔法使(まほうつか)いが魔法(まほう)をかけたかわからないけど、手間(てま)をかけたことには違(ちが)いないわ。きっと、意味(いみ)のある魔法(まほう)だと思う」
フィロのはっきりとしない言い方にポルは戸惑(とまど)いましたが、横(よこ)に置(お)いてある(すばらしい棒(ぼう))を手にすると、なぜだかまたがんばろうと思うのでした。
「ところで、フィロ。何か、手伝(てつだ)えることとかある? 何でも言って」
「そう、ありがとう。実(じつ)は、魔法(まほう)で使う材料(ざいりょう)を採(と)ってきて欲(ほ)しいのよ。東の岩場に咲(さ)いているスイセンの花びらよ」
「はい、わかりました」
フィロは、ポルの鼻(はな)を優(やさ)しく撫(な)でました。よく手伝いをすることを(すばらしい)と思いつつも、張(は)り切りすぎている姿(すがた)を見て、なんだかポルらしくないとも感(かん)じるのでした。
◇七色(なないろ)に誘(さそ)われて◇
岩場に到着(とうちゃく)すると、そこは草木がまばらに広がるだけの日当たりの悪(わる)い寂(さび)しげな場所(ばしょ)でした。ポルは、こんな場所(ばしょ)に花なんか咲(さ)いているのかと思いましたが、岩壁(いわかべ)に沿(そ)って上を見上げると、風にさらされる斜面(しゃめん)の所々(ところどころ)にスイセンの花が咲(さ)いているのを見つけました。
ポルは、ポケットからビー玉を取(と)り出すと、この場でどんな魔法(まほう)があれば便利(べんり)か考えてみました。
「そうだな、おいらが魔法使(まほうつか)いだとしたら、こんなとき空を飛(と)べる魔法(まほう)を使(つか)うかな」
ポルは、まるでビー玉に語(かた)りかけるように独(ひと)り言(ごと)を言いましたが、ビー玉は光るわけでもなくポルを浮(う)かばせることもありませんでした。
「ま、これも実験(じっけん)さ」
ポルは、ビー玉をポケットにしまうと(すばらしい棒(ぼう))を手にしながら岩を登(のぼ)り始(はじ)めました。ですが、岩場を登(のぼ)るのには両手(りょうて)を使(つか)わないと無理(むり)だとわかり、諦(あきら)めて(すばらしい棒(ぼう))は岩に立てかけておくことにしました。
岩場を登(のぼ)っていく間も強めの風がポルに当たりました。吹(ふ)き飛(と)ばされるほどではありませんが、気を付(つ)けながら登(のぼ)っていきます。
下を見ると、登(のぼ)ってきた高さに身震(みぶる)いしますが、振(ふ)り返(かえ)って見れば遠くの景色(けしき)まで見渡(みわ)せました。さらに、空の様子(ようす)にも気が付(つ)きました。遠くの空は晴れているのに、ポルがいる付近(ふきん)だけどんよりとした雲があります。
雨が降(ふ)りそうです。
ポルはスイセンの花を茎(くき)から摘(つ)むと、口でそれをくわえ、ゆっくりと降(お)りていきました。途中(とちゅう)で、ポケットのビー玉の魔法(まほう)に期待(きたい)して飛(と)び降(お)りてみようかとも思いましたが、実験(じっけん)は慎重(しんちょう)にするべきだと考え直しました。
岩場を降(お)りきったポルは、(すばらしい棒)を拾(ひろ)い、スイセンの花を小脇(こわき)に抱(かか)えながら走り出しました。
そして、フィロの家に立ち寄(よ)ってスイセンを渡(わた)すと、すぐに自分の家に向(む)かいました。ですが、残念(ざんねん)なことに途中(とちゅう)で雨が降(ふ)ってきてしまいました。
「ああ、どこかで雨宿(あまやど)りしなくちゃ」
空の具合(ぐあい)から、おそらくは通り雨だと感(かん)じられたので、ポルは近くの林の中に駆(か)け込(こ)みました。すると、そこにはフワンがいました。
「やあ、ポル。君(きみ)も雨宿(あめやど)りかい?」
「うん、急(きゅう)に降(ふ)ってきたね。でも、すぐ止(や)むでしょ。向(む)こうの空は晴れているし」
「そうだね」
ポルとフワンは、しばらく黙(だま)って雨を眺(なが)めました。雨は強く降(ふ)っていて、木の葉(は)や地面(じめん)を打ち付けます。その音は、繰(く)り返(かえ)し繰り返し続(つづ)きました。水たまりには、雨が落(お)ちる度(たび)に小さな波紋(はもん)ができていました。
ポルは、ふと呟(つぶ)きました。
「雨って、丸いんでしょ」
「そうだね。でも、落(お)ちるのが早いから目では見えないかな。でも、滴(しずく)と同じ」
フワンは、葉(は)っぱからしたり落(お)ちる水滴(すいてき)を指(さ)さしました。
「雨がビー玉だったら、降(ふ)ったあと地面(じめん)がとても綺麗(きれい)になりそうだね」
ポルは、真面目(まじめ)な顔で言いました。
「うーん、確(たし)かにそうだけど……。当たったら痛(いた)いよね」
フワンの言うとおりでした。ポルは、思わず笑(わら)い出しました。そして、自分のビー玉をポケットから取(と)り出して雨に当ててみました。
二人でビー玉を見つめます。
「ポル、何も起(お)こらないね」
「いや。雨が止(や)みそうだよ。ビー玉のおかげかも。また、次(つぎ)に雨が降(ふ)ったときに確(たし)かめてみるよ」
ポルは、空を見上げて言いました。
やがて雨が止(や)むと、雲の合間から日が差(さ)してきました。すると、驚(おど)くことが起(お)きました。なんと、雨と入れ替(かわ)わりに空から七人の妖精(ようせい)が降(ふ)ってきたのです。妖精(ようせい)たちは、それぞれ色の違(ちが)うカサを差(さ)しながらふわふわと降(お)りてきます。
雨宿(あまやど)りをしていた林の中で、ポルとフワンがぽかんと口を開(あ)けながら眺(なが)めていると、地面(じめん)に降(お)り立った妖精(ようせい)たちがカサを同じ方向(ほうこう)に向(ぬ)けて並(なら)べ始(はじ)めました。
妖精(ようせい)を見るのが初(はじ)めてだったフワンは、思わずポルを引(ひ)っ張(ぱ)って茂(しげ)みの中に隠(かく)れました。
「ポル。あれって、妖精(ようせい)だよね」
「うん。でもね、妖精(ようせい)はいたずらするから気をつけてよ」
戸惑(とまど)っているフワンに、ポルはひそひそと告(つ)げました。
しばらくすると、妖精(ようせい)たちが並(なら)べたカサが輝(かが)き出し、七色の光が放(はな)たれました。それは、弧(こ)を描(えが)いて小さな虹(にじ)になりました。ポルが知っている大きな虹(にじ)とは違(ちが)うものの、その小ささは妖精(ようせい)のカサのサイズに似合(にあ)ったものでした。
隠(かく)れていたつもりのポルたちの所(ところ)へ、妖精(ようせい)たちが飛(と)んできます。二人が身構(みがま)える間もなく、妖精(ようせい)たちはくすくすと笑(わら)いながら話しかけてきました。
「さあ、虹(にじ)をくぐるかどうか、決(き)めてちょうだい」
ポルは、フワンと顔を見合わせて首を傾(かし)げると、素直(すなお)に妖精(ようせい)に尋(たず)ねました。
「それをくぐると、どうなるの?」
「ふふふ。秘密(ひみつ)よ。くぐってからのお楽しみよ」
またかと、ポルは思いました。妖精(ようせい)のいたずらは、こりごりです。もう、このまま帰ろうかとも考えましたが、フワンの一言(ひとこと)で気持(きも)ちが変(か)わりました。
「ポル、何で妖精(ようせい)とふつうに話してるのさ。フィロと相談(そうだん)した方がいいよ。フィロは魔法使(まほうつか)いだから、きっと助(たす)けてくれるよ。ねっ。ポルだけで決(き)めない方がいいって。僕(ぼく)だったら、絶対(ぜったい)に、妖精(ようせい)の言うとおりになんてしないな」
ポルは、(すばらしい棒(ぼう))を握(にぎ)りしめました。誰(だれ)もやらないようなことをやるなんて、きっとすばらしい行動(こうどう)に違(ちが)いありません。
その先に何があるとしても、自分で決(き)めたことなのだから、きっと頑張(がんば)れるはずです。
心の中に自信(じしん)が沸(わ)いてくるのを感(かん)じます。今の自分なら、どんなことでもできそうな気がします。
「フワン。心配(しんぱい)してくれてありがとう。でもね、おいらは自分で決(き)める」
勇気(ゆうき)と自信(じしん)と共(とも)に、虹(にじ)への一歩を踏(ふ)み出します。
「ねえ、妖精(ようせい)さん。おいら、やるよ。虹(にじ)をくぐるなんて、不思議(ふしぎ)な感(かん)じだけね」
「不思議(ふしぎ)は、おもしろいのよ」
七人の妖精(ようせい)たちは、虹(にじ)の両側(りょうがわ)に分かれて並(なら)びました。ポルは(すばらしい棒(ぼう))をぐっと握(にぎ)り締(し)め、その間をゆっくりと進(すす)みます。そして、虹(にじ)の前で立ち止まると、心配(しんぱい)そうな顔をして見つめるフワンに手を振(ふ)って虹(にじ)をくぐりました。
◇憧(あこが)れの先へ◇
暗(くら)い、とても暗い場所(ばしょ)でした。小さな虹(にじ)のアーチをくぐった先に踏(ふ)み出した足の置(お)き場はなく、戻(もど)ろうとしても間に合わず、ポルは落(お)ちていきました。
虹(にじ)のアーチの出口は、地面(じめん)からだいぶ上の空中だったのです。後からアーチをくぐった妖精(ようせい)たちが、空中で羽(はね)を羽(は)ばたかせながら、あららという表情(ひょうじょう)でポルを見ています。
「ぎゃ!」
悲鳴(ひめい)があがります。ですが、ポルの悲鳴(ひめい)ではありません。
ポルには、悲鳴(ひめい)を上げる間(ま)もありませんでした。幸(さいわ)い落(お)ちた場所(ばしょ)が柔(やわ)らかかったため怪我(けが)はしませんでしたが、それでも、恐怖(きょうふ)と驚(おどろ)きで息(いき)を荒(あら)くしながらうずくまります。
「痛(いた)いなあ。君(きみ)、どっから落(お)ちてきたのさ。普通(ふつう)は、洞窟(どうくつ)の入り口にあるベルを鳴らすものなんだけど?」
声と共(とも)に炎(ほのお)が灯(とも)り、周(まわ)りを照(て)らしていきます。そこは、四方(しほう)を石の壁(かべ)に囲(かこ)まれた大きな部屋(へや)でした。そして、声の主(ぬし)はポルが想像(そうぞう)したこともないような、とても大きな竜(りゅう)でした。ポルは、竜(りゅう)の背中(せなか)に落(お)ちたのです。
ふいに聞こえてきた大きな声に、ポルは怯(おび)えました。すがる気持(きも)ちでそばにあるふさふさしたものにしがみつきましたが、それが竜(りゅう)の体の一部だと気が付(つ)くのにさほど時間はかかりませんでした。
見上げた先に、竜(りゅう)の顔があります。
頭には枝分(えだわか)かれした二本の角(つの)が生えていて、体は薄茶色(うすちゃいろ)の毛で覆(おお)われています。背中(せなか)には、部屋(へや)の中では十分(じゅうふん)に広げることはできないであろう、たたまれた大きな翼(つばさ)がありました。
ポルは、よろけながらも、ゆっくりと立ち上がりました。体はどこも痛(いた)くありません。高いところから落(お)ちましたが、怪我(けが)はしていないようです。
それにしても、ここはどこなのか。しかも、見たことのない大きな生(い)き物(もの)が、自分を見下ろしています。遙(はる)か上には、空中に浮(う)かぶ虹(にじ)のアーチが見えました。あそこから竜(りゅう)の体の上に落(お)ちたのだとわかりましたが、虹(にじ)のアーチに戻(もど)る方法(ほうほう)がわかりません。
そんな、不安(ふあん)な気持(きも)ちでよろつくポルの足に、地面(じめん)に転(ころ)がっていた(すばらしい棒(ぼう))が触(ふ)れました。ポルは、とっさに(すばらしい棒(ぼう))を拾(ひろ)い上げて握(にぎ)りしめました。そして、勇気(ゆうき)を出して叫(さけ)びます。
「おいら! おいら、帰りたい!」
「ん? 私(わたし)と旅(たび)に出るために来たのではないの?」
話がかみ合わずにお互(たが)い戸惑(とまど)いますが、先に場の空気を和(なご)ませたのは竜(りゅう)の方でした。
竜(りゅう)は穏(おだ)やかな声で笑(わら)いました。
「そんなに緊張(きんちょう)しなくてもいい。私(わたし)たちに必要(ひつよう)なのは、会話をすることだよ」
竜の台詞(せりふ)を聞いて、ポルは体の力が抜(ぬ)けていくのを感(かん)じました。わずかな安心感(あんしんかん)ですが、それがきっかけとなって張(は)り詰(つ)めていた緊張(きんちょう)が解(と)け始(はじ)めたのです。
竜(りゅう)の名前は、シルタムでした。
ポルとシルタムは少しずつ言葉(ことば)を交わし、やがてポルは竜(りゅう)が話す内容(ないよう)に引き込(こ)まれていきました。
シルタムは「旅立(たびだ)ちの竜(りゅう)」と呼(よ)ばれる存在(そんざい)で、その住(す)まいはとても高い山の上にありました。そして、広い世界(せかい)へ旅立(たびだ)ちたい人々(ひとびと)が、その強い意志(いし)で険(けわ)しい山を登(のぼ)り、長い期間(きかん)をかけてシルタムに会いに来ることを知りました。
シルタムはそんな彼(かれ)らを歓迎(かんげい)して、自分の背中(せなか)に乗(の)せて大きな翼(つばさ)で広い世界(せかい)へ飛(と)び立つのです。それほど素晴(すば)らしい機会(きかい)を、ポルはいきなり手に入れたのです。
「さあ、ポル。君(きみ)も他(ほか)のみんなと同じように私(わたし)と旅(たび)に出よう! 君(きみ)を背中(せなか)に乗(の)せて、好(す)きなところへ飛(と)んで行ってあげる」
初(はじ)めて見る光景(こうけい)。そして、思い馳(は)せる未知(みち)の世界(せかい)。それは、すばらしい誘(さそ)いでした。その経験(けいけん)をすることで、ポルは本当の素晴(すば)らしい自分になることができることでしょう。
ですが、ポルは戸惑(とまど)っていました。全てが、あまりにも唐突(とうとつ)なのです。
「おいら、今住(す)んでいるあたりから遠くへ行ったことがないんだ。それに、おいらだけで行くなんて……」
フィロの顔が浮(う)かびます。みんなの顔が浮(う)かびます。こんなに唐突(とうとつ)に、いつもの日常(にちじょう)と住(す)み慣(な)れた場所(ばしょ)を離(はな)れなくてはならないのでしょうか。もう、戻(もど)れないのでしょうか。
「想像(そうぞう)してごらん」
シルタムが壁(かべ)のレバーを引くと、壁(かべ)の一部が大きく開(ひら)いて眩(まばゆ)い光が差(さ)し込(こ)んできました。
「さあ、外を見て」
そこはとても高い山の中腹(ちゅうふく)で、目の前に広がるのは壮大(そうだい)な森林地帯(しんりんちたい)でした。そして、遥(はる)か先には空と地上が触(ふ)れ合うような、ポルには言い表(あらわ)せない広大(こうだい)な景色(けしき)がありました。
シルタムのたたまれた翼(つばさ)は、この広い世界(せかい)を飛(と)び回るためにあるのです。
「この、広大な自然(しぜん)の景色(けしき)、そして大勢(おおぜい)の人々が暮(く)らす町。君(きみ)は、私(わたし)という翼(つばさ)を手に入れてそれらを飛(と)び回ることができるんだ。そして、君の知らないことを知り、多くを経験(けいけん)することができる。それは、すばらしいことさ。すばらしく変(か)われる自分を想像(そうぞう)してみるんだ。これは、君のための冒険(ぼうけん)さ」
シルタムの言うことを聞きながら、ポルは(すばらしい棒(ぼう))を握(にぎ)りしめました。確(たし)かに、シルタムの提案(ていあん)する(すばらしく変(か)われる自分)はポルが望(のぞ)んでいたことなのです。自分で決(き)めて、それを実行(じっこう)することが、すばらしいことなのだとポルは知っていました。
「シルタム。君(きみ)の誘(さそ)いはすばらしいことだと思う。おいらも、行ってみたいと思う」
ポルは、少しだけシルタムの目を見ると、うつむいてポツリと言いました。
「それなら、行こう。ほら、こんなふうに空を飛(と)んで行こう!」
シルタムは洞窟(どうくつ)の出口に向(む)かうと、翼(つばさ)を広げて外へ飛(と)び出しました。その姿(すがた)は太陽(たいよう)に照(て)らされて眩(まばや)く輝(かがや)き、ポルをうっとりさせました。旅立(たびだ)つ話は現実(げんじつ)なのだと、強く感(かん)じさせられました。
「でも」
ポルは、シルタムが空を旋回(せんかい)して戻(もど)ってくるのを待(ま)って話しを続(つづ)けました。
「おいら、今は行けそうにない。みんなの所(ところ)に帰りたい」
「みんなとは?」
ポルは、シルタムに仲間(なかま)たちと過(す)ごす日常(にちじょう)を話して伝(つた)えました。穏(おだ)やかで変化(へんか)の少ない日常(にちじょう)ですが、大切にしていきたい仲間たちとの日常(にちじょう)は、何にも変(か)え難(がた)いものでした。仲間(なかま)たちの顔が頭に浮(う)かびます。フワンの注意(ちゅうい)も聞かずに自分で決(き)めて妖精(ようせい)の虹(にじ)をくぐったポルでしたが、その先に続(つづ)く旅立(たびだ)つという結果(けっか)を受(う)け入れることができませんでした。
帰りたい。帰るには、だめな自分を認(みと)めるしかありません。自分で決(き)めたことを貫(つらぬ)き通せないような、少しも(すばらしい棒(ぼう))にふさわしくなかった自分を。
「そうか……。それは、とても残念(ざんねん)だ」
シルタムはゆっくりと翼(つばさ)を揺(ゆ)らすと、ポルのそばに頭を寄(よ)せました
「さあ、乗(の)りなよ。角(つの)に掴(つか)まって。君(きみ)を帰してあげる」
「うん」
自分では届(とど)かなかった虹(にじ)のアーチが、シルタムの手助(てだす)けにより、あっと言う間に目の前までやってきました。妖精(ようせい)たちがその周(まわ)りを飛(と)び回ります。
「ありがとう、シルタム。おいら、本当に君(きみ)と一緒(いっしょ)に行きたいと思ったんだ。でも、決(き)められなかった」
「わかっているさ。焦(あせ)らなくてもいいんだ。今は、君(きみ)の仲間(なかま)たちと過(す)ごす時間を大切にして。でも、きっと君(きみ)はいつか自分で決(き)めて旅立(たびだ)つと思う。そのときは、私(わたし)を訪(たず)ねて来てほしい。私(わたし)は、シルタム。旅立(たびだ)ちの竜(りゅう)だ」
「うん。そうする」
ポルは、笑顔(えがお)で答えました。
「それまで、これを預(あず)かっておいて」
ポルはシルタムに(すばらしい棒(ぼう))を手渡(てわた)すと、虹(にじ)のアーチへ飛(と)び込(こ)みました。続(つづ)いて妖精(ようせい)たちも飛(と)び込(こ)み、やがて虹(にじ)は薄(うす)れ、消(き)えていきました。
ポルの手には、もう(すばらしい棒(ぼう))はありません。
◇帰還(きかん)◇
戻(もど)ってきたポルは、フワンに抱(だ)きつかれながら、気の抜(ぬ)けたような表情(ひょうじょう)で言いました。
「おいら、みんなと一緒(いっしょ)にいたかっただけなんだ。みんなのこと、好(す)きだから」
もう、日が暮(く)れます。気が付(つ)けば、妖精(ようせい)の姿(すがた)はどこにもありません。虹(にじ)のアーチも、妖精(ようせい)たちが並(なら)べた小さなカサも、消(き)えてしまいました。
フワンと別(わか)れて家に帰ったポルを、ペンウッドが出迎(でむか)えます。
「おかえり、ポル。もうすぐ、夕食だよ」
今日、ポルにとってすごい出来事(できごと)があったことが嘘(うそ)のように、いつもの日常(にちじょう)がそこにありました。改(あら)めて心地(ここち)よさを感(かん)じます。
シルタムがいたあの場所(ばしょ)へ行くのは、きっと早すぎたのです。
でも、いつか、きっと。
「はい、これ」
ふいに、ペンウッドがポルに手紙を渡(わた)しました。
「これは、なに?」
「ポルがいない時に、旅人(たびびと)が来たんだよ」
宛名(あてな)のない手紙。そんな手紙を旅人(たびびと)が運(はこ)んでくることがあります。送(おく)り主(ぬし)の気持(きも)ちだけが、どこかの誰(だれ)かに届(とど)くように。
『名前も知らない、すばらしき君(きみ)へ。君(きみ)がどこにいて何をしているのかはわからないけれど、そんな私(わたし)たちが、いつかどこかで出会えたなら、それはきっとすばらしいことに違(ちが)いない。私(わたし)は自分らしく過(す)ごし、いつかすばらしい自分になれたなら旅(たび)に出ようと思う』
ポルは、驚(おどろ)きました。自分と同じような想(おも)いを持(も)った人がいたのです。
「ペンウッドさん。実(じつ)は、おいらね」
ポルが語(かた)ったのは、未来(みらい)への決意(けつい)でした。ペンウッドは、ただただ、微笑(ほほえ)みながらポルの話を聞き続(つづ)け、一言(ひとこと)だけ伝(つた)えました。
「あせらずにゆっくりと、ポルらしく、すばらしい出会いにふさわしい自分になればいい」
その言葉(ことば)は、とても暖(あたた)かくポルを包(つつ)みました。(すばらしい棒(ぼう))はもうありませんが、手紙とペンウッドの言葉(ことば)は、それ以上(いじょう)にすてきな贈(おく)り物(もの)となりました。
その晩(ばん)、ポルは、世界(せかい)を旅(たび)する自分の姿(すがた)に想(おも)いを馳(は)せながら眠(ねむ)りにつきました。
旅立(たびだ)ちの竜(りゅう)シルタムの背(せ)に乗(の)って、すばらしい未来(みらい)へ。