◇勇気(ゆうき)と満月(まんげつ)◇
満月(まんげつ)の夜なのに、空が曇(くも)っていて月が見えないことはよくあるけれど、もしも綺麗(きれい)な満月(まんげつ)が見えたなら、すぐにジータのところへ行きましょう。おいしいシチューをもらうことができるから。
ポルが困(こま)っているフワンを見つけたのは、フィロの家に行った帰りでした。今日は晴れていて雲(くも)も少ないので、満月(まんげつ)が綺麗(きれい)に見えるだろうと思いながら歩いていると、傾(かたむ)いた宝箱(たからばこ)のそばでフワンが立ち尽(つ)くしていました。
どうしたのかとポルが尋(たず)ねると、いつも通りに宝箱(たからばこ)を連(つ)れて道を歩いていると、突然(とつぜん)車輪(しゃりん)が壊(こわ)れてしまい動(うご)くことができなくなったとのことでした。もくもくとした雲(くも)みたいなものは出ていても、さすがに車輪(しゃりん)が壊(こわ)れてしまっては駄目(だめ)なようです。
ポルは、宝箱(たからばこ)を作った本人であるペンウッドを呼(よ)びに行くことにしました。フワンは、とても喜(よろこ)びました。
すぐに、ペンウッドが直すための道具(どうぐ)を持(も)ってポルとともにフワンのところまでやってきました。ところが、直すには時間がかかることがわかりました。
「ポル。私(わたし)の代(か)わりにジータからシチューをもらってきてくれないか。暗(くら)くなる前に、車輪(しゃりん)を直してしまいたいんだ。大丈夫(だいじょうぶ)。ポルだったら運(はこ)べるさ」
「おいらが行かないと、だめ?」
ポルは、肩(かた)を落(お)としてぼやきました。
今日は天気が良(よ)く、おそらくは空に満月(まんげつ)が見える日。ジータが作る月うさぎのシチューをもらいに行ける特別(とくべつ)な日であることには間違(まちが)いありません。
ポルだっておいしいシチューを分けてもらえるのはとても嬉(うれ)しいことなのですが、夜にジータが住(す)む森に行くのが嫌(いや)でした。昼間でさえ森の中は薄暗(うすぐら)くて心細くなるのに、夜になったらどんなに恐(おそ)ろしげに感(かん)じることか。
「ごめんよ、ポル。僕(ぼく)が、道の真(ま)ん中(なか)で動(うご)けない宝箱(たからばこ)と一緒(いっしょ)に夜を過(す)ごせばいいのかも知れないけれど、せっかくペンウッドさんが直してくれているから」
「ううん、別(べつ)にフワンが悪(わる)いとかではなくてさ」
ポルは、弱々(よわよわ)しく首を振(ふ)りました。
いつもは、ペンウッドがジータの家まで行き、そして持(も)ち帰った鍋(なべ)いっぱいのシチューを、ポルもおいしくいただいていました。毎回、満月(まんげつ)が見える日は、とても楽しみな日になっていました。
ちなみに、ポルは一度(いちど)もシチューをもらいに行ったことはありませんでした。ジータからは、「月のルーを採(と)るところを見せてあげるからおいで」と言われていましたが、「そうだね」と答えるだけで実際(じっさい)に行ったことはありませんでした。
ペンウッドが、作業(さぎょう)の手を休めてポルに話しかけます。
「ポルはシチューをもらいに行くのが初(はじ)めてだから知らないと思うけど、夜にジータの家でシチューをもらったあとは、森の中に光る道が現(あらわ)れるんだ。だから、暗(くら)くても足下(あしもと)がよく見えて、しっかり鍋(なべ)を持(も)ったまま帰れるんだ。まあ、いい機会(きかい)だから、がんばって行ってきてごらん。今から森に向かえば、明るいうちにジータの家に着(つ)く。そしたら、満月(まんげつ)が出る夜までそこで待(ま)たせてもらえばいいじゃないか」
「だけど……」
ペンウッドは作業(さぎょう)に戻(もど)りましたが、フワンがじっとポルの方を見ています。ポルは、なんだかあまり情(なさ)けない様子(ようす)を見せるのも恥(は)ずかしくなってきました。確(たし)かに、少し勇気(ゆうき)を出せばできることなのです。
それに、もしも行かなかった時、そのことをフィロが知ったならどう思うことでしょう。優(やさ)しく同情(どうじょう)してくれるかもしれませんが、ポルは自分のことを情(なさ)けなく感(かん)じるに違(ちが)いありません。
「わかった。おいら、行ってくる……」
「ああ、よろしく」
ペンウッドは作業(さぎょう)の手を休めずに一言(ひとこと)だけ言っただけでしたが、フワンはポルの肩(かた)に手を置(お)いて励(はげ)ましました。
「がんばれ、ポル。君(きみ)なら、きっとできるさ」
「うん、おいら、がんばるよ」
ポルは、二人と別(わか)れると、家から両手持(りょうても)ちの鍋(なべ)を持(も)ち出して、ジータの住(す)む森に向(む)かいました。太陽(たいよう)はまだ高い位置(いち)にあり、空には雲(くも)がほとんどありません。
夜には、きっと満月(まんげつ)が綺麗(きれい)に出ることでしょう。
◇月すくい◇
森の中は、とても静(しず)かでした。そして、ところどころの木々(きぎ)がまばらなところには木漏(こも)れ日が差(さ)し込(こ)んでいましたが、木々が生(お)い茂(しげ)る辺(あた)りは薄暗(うすぐら)く、不安(ふあん)な気持(きも)ちにさせられます。夕暮(ゆうぐ)れに近づけば、もっと暗(くら)くなることでしょう。
ポルは、勇気(ゆうき)を出して森の小径(こみち)を進(すす)みました。途中(とちゅう)、不安(ふあん)で焦(あせ)りながら歩いたことで、何度(なんど)かつまずいて転(ころ)んでしまいました。静(しず)かな森の中に鍋(なべ)を落(お)とした甲高(かんだか)い音を響(ひび)かせてしましたが、それでも頑張(がんば)って進(すす)みました。
幸(さいわ)い、一本道なので迷(まよ)うことはありません。しばらく進(すす)むと、やがて目の前に湖(みずうみ)が現(あらわ)れました。湖岸(こがん)には、細長い小舟(こぶね)がつないであり、さらに、その近くにはジータの家が見えました。
湖面(こめん)に写(うつ)る空の色は、だいぶ夕暮(ゆうぐ)れの色になっていましたが、あまり陽(ひ)の届(とど)かない森の中とは違(ちが)い、湖畔(こはん)は明るくポルは安心(あんしん)することができました。
湖畔(こはん)をたどり、ジータの家に到着(とうちゃく)したポルは、脇(わき)にある広い畑(はたけ)を眺(なが)めながらドアのベルを鳴らしました。
「やあ、ポル。今日は、君(きみ)が来たんだね」
ジータは、笑顔(えがお)でポルを迎(むか)えました。ですが、すぐには家の中に入れてくれませんでした。
「ポル。収穫(しゅうかく)したての野菜(やさい)と、森の中で転(ころ)んで付(つ)いた土は、外で払(はら)っておくものさ」
ポルは持(も)ってきた鍋(なべ)をジータに預(あず)けると、慌(あわ)てて体に付(つ)いた土を払(はら)いながら照(て)れ笑(わら)いをしました。暗(くら)くなる前にジータの家に着(つ)こうと夢中(むちゅう)で走り幾度(いくど)となく転(ころ)んでしまったことが、ジータにはばれていたようです。
家の中に通されると、テーブルの上にはたくさんの野菜(やさい)が並(なら)べてありました。ジータはポルを椅子(いす)に座(すわ)らせると、預(あず)かった鍋(なべ)をテーブルに置(お)き、続(つづ)けて包丁(ほうちょう)でテーブルの上の野菜(やさい)を切って、かまどに置(お)かれた大きな鍋(なべ)に入れていきました。
「私(わたし)の畑(はたけ)で取(と)れた自慢(じまん)の野菜(やさい)たちと、月のルーが合わされば、最高(さいこう)のシチューができあがるんだ。満月(まんげつ)が空高く登(のぼ)るまでもう少し待(ま)たないとならないけれど、ポル、君(きみ)は我慢(がまん)できるかい?」
「大丈夫(だいじょうぶ)さ」
と言いつつ、ジータのシチューを何度(なんど)も食べたことのあるポルは、そのおいしさを思い出して待(ま)ちきれない気分になりました。すると、お腹(なか)が鳴りました。
「ははは、君(きみ)はわかりやすいなぁ。ところで、今日はペンウッドさんはどうしたんだい?」
「フワンの宝箱(たからばこ)の車輪(しゃりん)が壊(こわ)れてね、直しているんだ。だから、代(か)わりにおいらが来たんだよ」
「ふーん。自分から、代(か)わりを申(もう)し出るなんて、君(きみ)は立派(りっぱ)だな。でも、大丈夫(だいじょうぶ)かな。君(きみ)は、その、わかりやすい性格(せいかく)だから。誘惑(ゆうわく)には、気をつけないとね」
「えっ、どういうこと?」
ポルが首を傾(かし)げて尋(たず)ねても、ジータは笑(わら)うだけでした。
やがて、満月(まんげつ)が空高く登(のぼ)ると、ジータは棒(ぼう)の付(つ)いた網(あみ)と大きな袋(ふくろ)を抱(かか)えて外に出ていきました。ポルもあとを追(おい)いかけます。
「それじゃ、これから湖(みずうみ)の真(ま)ん中(なか)で満月(まんげつ)のルーを採(と)ってくるから、ポルはそこで待(ま)っててね」
月のルーとは何なのかポルにはわかりませんでしたが、小舟(こぶね)に乗(の)り込(こ)んで湖(みずうみ)の奥(おく)へ進(すす)んでいくジータが、網(あみ)で何かを採(と)ろうとしていることは確(たし)かでした。
空には、淡(あわ)く黄色に輝(かが)く満月(まんげつ)があり、その姿(すがた)がそのまま湖面(こめん)に写(うつ)っています。ジータを乗(の)せた小舟(こぶね)が、そこへ近づいていき停(と)まりました。ジータの姿(すがた)は小さくなりましたが、それでもポルがいる場所(ばしょ)からジータが何をしたのかは見えました。
なんと、ジータは、湖面(こめん)に写(うつ)る満月(まんげつ)を、棒(ぼう)の付いた網(あみ)で小舟(こぶね)の上にすくい上げたのです!
ポルは驚(おどろ)いたものの、きっと湖面(こめん)を波立(なみだ)たせたために月が写(うつ)らなくなっただけなのだと思いました。ですが、どうにもおかしいのです。ジータの小舟(こぶね)がそこから移動(いどう)してポルの方に向(む)かって来るのにもかかわらず、いつまでたっても湖面(こめん)に月が写(うつ)らないのです。空を見上げれば、きちんと月が輝(かが)いています。湖面(こめん)の月だけが消(き)えてしまいました。
湖畔(こはん)に戻(もど)ってきたジータは、小舟(こぶね)から降(お)り、大きく膨(ふく)らんだ袋(ふくろ)を担(かつ)ぎながらポルのそばにやってきました。もう片方(かたほう)の手には、空っぽの網(あみ)を持(も)っています。
「おまたせ、ポル。どうだった、月うさぎが月のルーを採(と)るところを見た感想(かんそう)は?」
「え、えーと、月がなくなっちゃたけど」
聞かれても困(こま)ります。とにかく、ポルはジータが担(かつ)いでいる袋(ふくろ)の中身(なかみ)を見せてもらうことにしました。
そっと開(ひら)かれた袋(ふくろ)の口から光があふれます。始(はじ)めは眩(まぶ)しくてよくわかりませんでしたが、目が慣(な)れると袋(ふくろ)の中身(なかみ)がとろっとした黄色いものであるのがわかりました。
「これが、月のルーさ。月うさぎの私(わたし)にしか採(と)れないけどね。さあ、家に戻(もど)ろう。これを使(つか)ってシチューを作ってあげる」
何とも不思議(ふしぎ)な出来事(できごと)でしたが、ポルはジータと一緒(いっしょ)に家の中に戻(もど)ると、椅子(いす)に座(すわ)ってジータがシチューを作るのをじっと待(ま)ちました。
大きな鍋(なべ)に月のルーが注(そそ)がれ、先に入れられた野菜(やさい)と一緒(いっしょ)に煮込(にこ)まれていくと、ほどなく良(よ)い匂(にお)いがしてきます。ジータの作るシチューのおいしさは、何度(なんど)も食べて知っています。あとは、がんばって空腹(くうふく)をこらえながらできあがるのを待(ま)つばかりです。もちろん、食べるのはポルの家に持(も)ち帰ってからなので、早く食べたい気持(きも)ちはまだまだ我慢(がまん)しなくてはなりません。
ポルは、待っている間にジータに尋(たず)ねました。
「ねえ、ジータ。君(きみ)は、魔法使(まほうつか)いなの? だって、月をルーにするなんて」
ジータは鍋(なべ)にフタをすると、火の加減(かげん)を見ながらポルの横(よこ)の席(せき)に座(すわ)りました。
「私(わたし)は、魔法使(まほうつか)いではないよ。月のルーを採(と)るのは、月うさぎの特技(とくぎ)なのさ。まあ、野菜(やさい)作りも私(わたし)の特技(とくぎ)だけどね。ポル、君(きみ)にだって特技(とくぎ)はあるでしょ?」
「おいらの特技(とくぎ)?」
ポルは考えましたが、何も出てきませんでした。そして、気が付(つ)きました。もともと、自分には特技(とくぎ)がないことに。
「よく、考えてごらんよ」
ジータに言われても、やはり思いつきません。フィロは、魔法(まほう)。バミットは、絵を描(えが)くこと。ペンウッドは、物(もの)を作ったり直したり。フワンは……。
「あっ、フワンにも特技(とくぎ)がない!」
晴(は)れやかな顔でポルは言いましたが、ジータに「ポルの特技(とくぎ)の話だよ」とたしなめられ、曇(くも)った顔になりました。
「まあ、野菜(やさい)の育(そだ)て方(かた)だったら、いつでも教えるよ」
ジータはそう言うと、かまどの火を消(け)してから鍋(なべ)のフタを開(あ)けて、中身(なかみ)をかき混(ま)ぜました。野菜(やさい)がよく煮込(にこ)まれて、ルーと解(と)け合い、とてもおいしそうにできあがりました。ポルも、匂(にお)いでそれがわかりました。
「はい、できあがり。ポル、そこの鍋(なべ)を持(も)ってここに来て」
ポルは言われたとおりに、自分が運(はこ)んで来た空っぽの鍋(なべ)を持(も)ってジータの横(よこ)に行きました。
「しっかり、持(も)っていてね。今からシチューを注(そそ)ぐから」
ポルが両手(りょうて)で持つ鍋(なべ)に少しずつシチューが注(そそ)がれる度(たび)、湯気(ゆげ)と一緒(いっしょ)にシチューの匂(にお)いが漂(ただよ)います。ポルは空腹(くうふく)を感(かん)じながらも、今はまだ、うっとりとした表情(ひょうじょう)でそれを見つめるしかありません。
鍋(なべ)の中のシチューは見た目もすばらしく、まさに満月(まんげつ)の明かりのように淡(あわ)く輝(かがや)いていました。そして、シチューを注ぎ終(おわ)わった鍋(なべ)にジータがフタをすると、シチューの輝(かがや)きも匂(にお)いも、鍋(なべ)の中に閉(と)じ込(こ)められました。
「ふう。おいら、ここで食べていこうかな」
ためらいもなく当たり前のように言ったポルに、ジータが注意(ちゅうい)します。
「だめだよ、ポル。シチューは、きちんと家に持(も)ち帰って食べること。ペンウッドさんだって待(ま)っているでしょ」
確(たし)かにその通りなのですが、ポルのお腹(なか)は鳴りっぱなしです。
「さあ、鍋(なべ)のフタをひもで縛(しば)ろう。森の中を運(はこ)ぶ時に揺(ゆ)れてもこぼれないようにね」
ジータは、ポルに言って鍋(なべ)をテーブルに置(お)かせると、フタと取手(とって)をひもで結(むす)んでしっかりと固定(こてい)しました。さすがに転(ころ)んで鍋(なべ)をひっくり返(かえ)せば、シチューはこぼれてしまうかも知れませんが、普通(ふつう)に運(はこ)ぶぶんには大丈夫(だいじょうぶ)でしょう。
「転(ころ)ばないようにね」
一応(いちおう)、ジータは付(つ)け加(くわ)えました。
ポルは鍋(なべ)を両手(りょうて)でしっかり持(も)つと、ジータと一緒(いっしょ)に外に出ました。月明かりのおかげで、外は明るく感(かん)じました。一応(いちおう)、ポルは湖面(こめん)を見ましたが、月は未(いま)だに写(うつ)っていません。湖面(こめん)にあった月の一部(いちぶ)は、ポルが持(も)っている鍋(なべ)の中です。
「ねえ、ジータ。森の中は暗(くら)いんでしょ。おいら、転(ころ)んじゃうよ、きっと」
「大丈夫(だいじょうぶ)、きちんと灯(あか)りはあるんだ。さあ、案内(あんない)してあげる」
ジータに導(みちび)かれるままに進(すす)むと、薄暗(うすぐら)い森の中にほのかに光る場所(ばしょ)が見えてきました。それは、ポルが通ってきた道とは違(ちが)う森の奥(おく)まで続(つづ)く光る道でした。正確(せいかく)には、道の両側(りょうがわ)が光っていました。
「月見草(つきみそう)だよ」
ジータが言いました。
道の両側(りょうがわ)には月見草(つきみそう)が並(なら)んで生えており、それがほのかに光って道を照(て)らしています。ペンウッドが言っていたのは、この道のことだったのです。
「きれい。おいら、こんなの見るの初(はじ)めてだよ」
「これはね、月うさぎのシチューのおかげなんだ。つまり、それを作った私(わたし)のおかげ。この森に生える月見草(つきみそう)は、シチューを運(はこ)ぶ人を導(みちび)いて助(たす)けてくれる。この道をたどっていけば、無事(ぶじ)に森から出られるよ。でもね、ポル。気をつけなくてならないことがあるんだ。もしも、運(はこ)んでいる途中(とちゅう)で鍋(なべ)のフタを開けてしまうと、その途端(とたん)に月見草(つきみそう)は光るのをやめて道は真(ま)っ暗(くら)になってしまう」
ポルは、身震(みぶる)いをしました。鍋(なべ)からはシチューの暖(あたた)かみが伝(つた)わってきているものの、なんだか寒気(さむけ)がします。
「大丈夫(だいじょうぶ)だよ。だって、フタは紐(ひも)で縛(しば)ってあるじゃないか。開(あ)けなければいいんでしょ。大丈夫(だいじょうぶ)だよ」
「そうかい。それならいいのだけどね」
「それじゃ、おいら行くね。シチューありがとう」
ポルは、鍋(なべ)をしっかりと持(も)つと、月見草(つきみそう)が照(て)らしてくれる光る道をゆっくりと進(すす)み始(はじ)めました。
◇小さな誘惑者(ゆうわくしゃ)◇
ポルが空を見上げると、空にはきちんと満月(まんげつ)がありました。ジータが湖(みずうみ)からすくったのは何だったのかよくわかりませんが、少なくともそれを使(つか)ったシチューが、ポルが両手(りょうて)で持(も)っている鍋(なべ)の中にあります。
湖畔(こはん)から森の中に入ってしまうと、月明かりもあまり届(とど)かない暗(くら)さがありました。頼(たよ)りは月見草(つきみそう)の灯(あか)りだけです。
ポルは鍋(なべ)を両手(りょうて)で持(も)ちながら慎重(しんちょう)に進(すす)みましたが、すぐに疲(つか)れてきてしまいました。鍋(なべ)の中にたっぷり入ったシチューが重(おも)いのです。
このシチューは、持(も)って帰ってポル一人で食べるわけではありません。いつもはペンウッドと一緒(いっしょ)にたべるのですが、今日はフワンもいるかもしれません。みんなで食べるには、ある程度(ていど)の量(りょう)が必要(ひつよう)です。鍋(なべ)が重(おも)くなるのは当たり前です。
「ちょっと休憩(きゅうけい)」
ポルは立ち止まると鍋(なべ)を地面(じめん)に置(お)きました。試(ため)したいことを思いついたのです。
ポケットからビー玉を取(とり)り出して願(ねが)います。もしかしたら、ビー玉の魔法(まほう)で鍋(なべ)が軽(かる)くなるかもしれません。
「ビー玉の魔法(まほう)よ。美味(おい)しいシチューが入ったこの鍋(なべ)を軽(かる)くして下さい」
ポルはビー玉を見つめます。月見草(つきみそう)の灯(あか)りが写(うつ)り込(こ)んでとても綺麗(きれい)ですが、どうやら特別(とくべつ)なことは起(お)こらないようです。
ポルは、諦(あき)めてビー玉をしまうと、再(ふたた)び鍋(なべ)を持(も)って歩き出しました。
すると、ふと、近くの月見草(つきみそう)が揺(ゆ)れました。ポルが何気(なにげ)に目を向けると、そこには小さな妖精(ようせい)がいました。月見草(つきみそう)のような、黄色いドレスを着(き)てふわふわと飛(と)んでいます。
妖精(ようせい)を見るのは、キノコ集(あつ)めに行った森での出来事(できごと)以来(いらい)二回目です。ポルは驚(おどろ)いてその場に立ち止まりましたが、次(つぎ)に頭に浮(うか)かんだのは、何かいたずらをされるのではという警戒心(けいかいしん)でした。
妖精(ようせい)が話しかけてきました。
「こんばんは。今日は、満月(まんげつ)が綺麗(きれい)ね」
ポルは返事(へんじ)をしません。じっと様子(ようす)を見ます。
「返事(へんじ)をしてくれないなんて、失礼(しつれい)ね」
妖精(ようせい)はポルに近づくと、鍋(なべ)の近くを飛(と)び回りました。ポルは反射的(はんしゃてき)に体を捻(ひね)って鍋(なべ)を妖精(ようせい)からかばおうとしましたが、鍋(なべ)が重(おも)たくてよろけてしまいます。
それを見ていた妖精(ようせい)が言いました。
「まあ、鍋(なべ)の中身(なかみ)は何かしら。きっと、とても美味(おい)しいものなのね。そんなに大事(だいじ)にしているものね。でも、重(おも)たそう。中身(なかみ)を食べて軽(かる)くすればいいのに」
妖精(ようせい)は、それだけ言うと消(き)えてしまいました。
ポルは少しの間あっけにとられましたが、すぐに気を取(と)り直して歩き出しました。
それにしても、妖精(ようせい)に言っていたことが気になります。確(たし)かに中身(なかみ)を食べれば軽(かる)くなるのは当たり前です。
ですが、食べてはいけないことをポルは知っています。きちんと持(も)ち帰ってみんなで食べることは当然(とうぜん)ですが、もしも鍋(なべ)のフタを開(あ)けてしまったら、月見草(つきみそう)の灯(あか)りが消(き)えて帰り道がわからなくなってしまいます。
頑張(がんば)って進(すす)みます。ですが、いろいろとシチューのことを考えたせいで、静(しず)かな森にポルのお腹(なか)のなる音が響(ひび)きました。途中(とちゅう)までがんばって歩いてきたポルでしたが、だんだん疲(つか)れてきて、両手(りょうて)で鍋(なべ)を持(も)ち続(つづ)けるのも辛(つら)くなってきました。
「ちょっと、休憩(きゅうけい)しようかな」
と言いましても、休めるようなところはありません。仕方(しかた)なく、ポルは道に鍋(なべ)を置(お)いて座(すわ)り込(こ)みました。
「はあ、疲(つか)れた。結構(けっこう)、歩いたよね。少し、休んでもいいよね」
自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、何気(なにげ)なく鍋(なべ)のフタに手をかけたポルは、慌(あわ)ててその手を離(わた)しました。
フタを開(あ)けてはいけません。フタを開ければ、月見草(つきみそう)の光がなくなって、真(ま)っ暗(くら)な森の中を進(すす)まないとならなくなります。ポルは、ジータの言ったことを思い出して身震(みぶる)いしました。
◇消えない月見草(つきみそう)◇
突然(とつぜん)、近くのやぶが揺(ゆ)れました。地面(じめん)にしゃがみ込(こ)んでいたポルが驚(おど)いて振(ふ)り向(む)くと、そこにはランタンを手にした人物(じんぶつ)が立っていました。
「ごめん、驚(おどろ)かせてしまったね。私(わたし)の名前はマキリタ」
驚(おどろ)いて地面(じめん)に尻餅(しりもち)をついてしまったポルでしたが、マキリタの声を聞いてはっと正気(しょうき)に戻(もど)ると、慌(あわ)てて鍋(なべ)に近づいて抱(かか)え込(こ)みました。
「だれっ!」
「だから、マキリタです」
「なんで、ここにいるの!」
「この近くで、野営(やえい)をしていたんだよ。ほら、向(む)こうにたき火の灯(あか)りが見えるでしょ。それで、こっちのほうに明かりが見えたものだから調(しら)べに来たんだ」
ゆっくりと落(お)ち着(つ)いた調子(ちょうし)で話すマキリタに、ポルは少しだけ警戒心(けいかいしん)を解(と)くことにしました。しゃがみこんだ姿勢(しせい)で鍋(なべ)を抱(かか)えるのをやめ、立ち上がって答えます。
「おいらは、ポル。家に帰る途中(とちゅう)」
まだマキリタのことを信用(しんよう)していないポルは、考えながらゆっくりとしゃべりました。そして、月うさぎのシチューのことは黙(だま)っておくことにしました。
「そうか。よろしく、ポル。それで、君(きみ)はなんで、そこに座(すわ)っていたんだい?」
「疲(つか)れたから、休んでた」
「だったら、あっちにおいでよ。たき火の前で休むといい」
「え、あ、でも、おいら」
「ははは、そんなに用心深(ようじんぶか)くならなくても大丈夫(だいじょうぶ)だよ。私(わたし)も君(きみ)と同じで疲(つか)れたから休んでいたんだ」
「ふーん」
ポルは、急(いそ)いでこの場を立ち去(さ)ろうとも思いましたが、まだ疲(つか)れていましたし、鍋(なべ)を持(も)ってさらに歩くには、休憩(きゅうけい)は必要(ひつよう)でした。
それに、少なくともマキリタはポルのシチューを狙(ねら)っているわけではないようでした。話す様子(ようす)は、優(やさ)しげ感(かん)じます。ポルはマキリタの誘(さそ)いを受(う)けることにしました。
たき火の前に落(お)ち着(つ)いた二人は、いろいろとおしゃべりをしました。マキリタは、(すばらしい棒(ぼう))を探(さが)しながら旅(たび)をしているとのことでした。(すばらしい棒(ぼう))とは、森などに落(お)ちているただの枝(えだ)の中で、形や重(おも)さや手に持(も)った具合(ぐあい)などがすばらしくしっくりくるもののことだと言いました。
ポルには棒(ぼう)のことはよくわかりませんでしたが、一生懸命(いっしょうけんめい)に説明(せつめい)してくれるマキリタは、とても楽しそうに見えました。
「おいらが、運(はこ)んでいる物(もの)がなんだかわかる?」
ふと、ポルはマキリタに尋(たず)ねました。楽しい雰囲気(ふんいき)の中で、何だか話したくなったのです。
「その鍋(なべ)、とても大事(だいじ)そうだね」
「実(じつ)はね、とってもおいしいシチューが入っているんだ。でもね、フタを開(あ)けると月見草(つきみそう)の灯(あか)りが消(き)えて帰り道がわからなくなってしまう。だから、残念(ざんねん)だけど中は見せられない」
「そうか……。どんな味(あじ)か知りたかったな。でも仕方(しかた)ないね」
マキリタは残念(ざんねん)そうに微笑(ほほえ)むと、たき火に薪(まき)をくべました。しばらく二人は黙(だま)ってたき火を見つめました。
ポルのお腹(なか)が鳴りました。マキリタのお腹も鳴(な)りました。
「でも、もしかしたら、フタをちょっとだけずらして、味見(あじみ)をするだけなら大丈夫(だいじょうぶ)かも」
大丈夫(だいじょうぶ)な根拠(こんきょ)はどこにもありませんでしたが、ポルはシチューの誘惑(ゆうわく)に負(ま)けてしまいました。
「いいのかい?」
マキリタが、心配(しんぱい)そうに尋(たず)ねます。
「きっと、大丈夫(だいじょうぶ)だよ」
ポルは、鍋(なべ)のフタを縛(しば)ってある紐(ひも)をほどくと、そっと鍋(なべ)のフタを横(よこ)にずらしてみました。すると、鍋(なべ)の隙間(すきま)から月うさぎのシチューの輝(かがや)きと匂(にお)いがあふれ出しました。もう、食べたい気持(きも)ちが収(おさ)まりません。それでも、一応(いちおう)我慢(がまん)をして道の方を見てみると、月見草(つきみそう)の灯(あか)りは消(き)えていませんでした。
「はあ、良(よ)かった。やっぱり、フタを少しずらすだけなら大丈夫(だいじょうぶ)だったみたいだね」
「そうだね、良(よ)かった。ところで、これ使(つか)う?」
マキリタが差(さ)し出したのは二つのスプーンでした。開(あ)けた鍋(なべ)のフタの隙間(すきま)から、スプーンを使(つか)ってシチューを味見(あじみ)しようと言うことのようです。
それを察(さっ)したポルは、まず自分がシチューをすくって食べてみました。
「うーん、おいしい! やっぱり、ジータが作る月うさぎのシチューは最高(さいこう)だよ」
「それじゃ、私(わたし)も」
マキリタも、スプーンですくって食べてみます。
「おぉ、これはおいしい。こんなにおいしいシチューは食べたことがない」
その後は、味見(あじみ)が何度(なんど)も繰(く)り返(かえ)されて、気付(きづ)いたときには鍋(なべ)の中のシチューはだいぶ減(へ)っていました。鍋(なべ)のフタも大きくずらし、ジータの自慢(じまん)である野菜(やさい)も、おいしかったのでたくさん食べてしまいました。
ポルは、無言(むごん)で鍋(なべ)のフタを元に戻(もど)すと、紐(ひも)で取手(とって)に縛(しば)り付けました。おいしいシチューをたくさん食べ、お腹(なか)いっぱいで幸(しあ)せな気分ではあるのですが、悪(わる)いことをしたという気持(きも)ちは残(のこ)ります。
「なんだか、私(わたし)までたくさん食べてしまって悪(わる)かったね」
マキリタが、申(もう)し訳(わけ)なさそうに言いました。
「ううん。どうにか、ペンウッドさんの分が残(のこ)っているから大丈夫(だいじょうぶ)だよ」
「そうだ。お礼(れい)に、君(きみ)にこの棒(ぼう)をあげるよ。私(わたし)が見つけた(すばらしい棒(ぼう))の中の一本さ。こんなにおいしいシチューを食べさせてくれたすばらしい君(きみ)にこそふさわしい」
「ううん。これを作ったのはおいらじゃない。月うさぎのジータだよ」
「いやいや。私(わたし)をシチューに出会(であ)わせてくれたのは君(きみ)さ。だから、君(きみ)がすばらしい」
「そうなんだ……。ありがとう。もらうよ」
シチューを食べてしまって気落(きお)ちしているポルは、それ以上(いじょう)言うことなく、ぼそりと答えました。
マキリタから棒(ぼう)を受(う)け取(と)ったポルは、手に持(も)って軽(かる)く振(ふ)ってみました。すると、確(たし)かに手によく馴染(なじ)むすばらしい棒(ぼう)でした。長さも、重(おも)さも、ポルにぴったりです。
ですが、どんな(すばらしい棒(ぼう))も、今のポルの虚(むな)しい気持(きも)ちを補(おぎな)ってはくれませんでした。
◇鍋(なべ)の中の後悔(こうかい)◇
マキリタと別(わか)れたポルは、月見草(つきみそう)が照(て)らす道を歩きだしました。軽(かる)くなった鍋(なべ)を持(も)つのはたやすく、あっという間に森を抜(ぬ)けることができました。
すると、そこにはフワンがいました。
「おかえり、ポル。重(おも)くて大変(たいへん)だったでしょ。ほら、僕(ぼく)の宝箱(たからばこ)、直ったんだよ。それでね、ペンウッドさんが、今晩(こんばん)は一緒(いっしょ)にシチューを食べに来なよって言うからさ、僕(ぼく)もシチューを運(はこ)ぶ手伝(てつだ)いをしにきたんだ。さあ、宝箱(たからばこ)の中にシチューを入れて帰ろう」
ポルはフワンの宝箱(たからばこ)に鍋(なべ)をしまうと、シチューを楽しみにして浮(う)かれるフワンの横(よこ)をとぼとぼと歩きながら家まで帰りました。
「やあ、おかえり」
ペンウッドが出迎(でむ)えます。
ポルはフワンの宝箱(たからばこ)から鍋(なべ)を取(と)り出してテーブルに置(お)くと、小さな声でぼそぼそと言いました。
「森の中でお腹(なか)を空(す)かせている人がいたんで、この棒(ぼう)と交換(こうかん)でシチューを分けてあげたんだ。おいらは、ジータの家で少し食べてきたからいらないよ。おやすみ」
ポルは、ペンウッドとフワンの二人で食べるには少なすぎるシチューの量(りょう)を申(もう)し訳(わけ)なく思いながら、(すばらしい棒(ぼう))と一緒(いっしょ)に自分の部屋(へや)へ行きました。
月うさぎのジータは、ポルが帰った後(あと)、いつもと同じように自分で作った野菜(やさい)を褒(ほ)めながらシチューを食べていました。そして、ポルが家に帰る途中(とちゅう)でシチューを食べてしまわないように、鍋(なべ)のフタを開(あ)けると月見草(つきみそう)の灯(あか)りが消えてしまうという嘘(うそ)が役(やく)にたったことを願(ねが)いながら、窓(まど)の外の満月(まんげつ)を眺(なが)めたのでした。